Grand Story
THE GRAND STORY #1
代表取締役 CEO越智 敬之

「機械だった自分の体に、血が通った瞬間を忘れない」——
“べき・ねば”を手放すことが、社会をより良くする

「希望と幸福に満ちた物語(=Grand Story)を日本にもたらしたい」——そんな願いから2019年5月に創られた、Grand Story Inc.(株式会社グランストーリー)。代表の越智敬之に、創業の原体験とIGNITIONに込めた想いを聞きました。

Hiroshi Ochi 越智 敬之

Hiroshi Ochi
越智 敬之

Grand Story Inc. 代表取締役 CEO

1999年、早稲田大学在学中にWEB制作会社を起業。2002年、サイバーエージェント入社。デジタルマーケティングの営業プロデューサーとして大企業のデジタルシフトをサポート。2009年、博報堂にて大手消費財企業のデジタルコミュニケーション戦略を担当。2012年、株式会社AOI Pro.入社。グループデジタル戦略と事業再編プロジェクトを主管し、PMI責任者としてビジネス・アーキテクツの執行役員就任。2015年、IDOM Inc.入社。新規事業開発プロデューサーとして事業開発に従事した後、ビジネス人材採用責任者として多数の人材開発・組織開発プログラムを企画開発。2019年、次世代の社会イノベーションを担うリーダー「活き人」の育成と支援を目的に株式会社グランストーリーを創業。代表取締役CEOに就任。

あるべき姿を描き行動していく「活き人」を創造する

本日はよろしくお願いします。まずは、Grand Story Inc.について教えてください。

Grand Story Inc.は、ひとりでも多くの「活き人」を増やし、応援し、繋げていくことで、次世代に希望と活力ある未来を届けることをビジョンに創業しました。

私たちが定義する「活き人」とは、制約条件にとらわれず、あるべき姿から考え、⾼い熱量で⾏動していく人たちのこと。色々な企業や地域に関わる中で、能力は高いにも関わらず、主体的に動いていく「活き人」は、少ない現状を感じています。

理由のひとつに、日本は、職場やコミュニティ内にある、過当競争や同調圧力の中で、不安や恐れといった強迫観念を感じやすい環境であることが挙げられます。それが、人を動かす原動力になり、主体的な行動を無意識に阻む心のバイアスになってしまっている。

確かに、「こうあるべき」という固定観念は強いように感じます。

そうですよね。人は、恐れに駆り立てられて努力を続けていると、本来の志が抑圧されて、何がしたいのか・どう生きたいのか分からなくなってしまうんです。Grand Story Inc.では、かつての私も含め、そうした状態にある人を「活き人」と対比して「べき人」と表現しています。

「せねばいけない」からくる「べき人」ですか?

そうです、そうです。ちなみに「べき人」は言い換えると「ねば人」ともいえます。これはきっと、誰もが経験する通過点だと思いますが「ねば・べき・Must・Have to」といった目の前のタスクにコミットする習慣を続けていると、いつしかそのストレス状態を一刻も早く解消することが日々の目的となっていきます。

そうしたコミットせねばいけないという「不安・恐怖」が、常に人を動かす前提となって、結果的にひとりひとりの心の声に従った、新たな挑戦や変化を阻む要素になってしまっています。多くの人たちがこうした心の「バイアス」に囚われている現実は、これまでの持続的成長と競争過多な社会環境が作り上げてしまった社会問題でもあり、今後のあるべき社会イノベーションを阻む要因でもある、と私は捉えています。

日本が現在向き合う課題は、挙げだしたらきりがありません。大量生産・大量消費・大量廃棄社会。人口の都市集中と地方経済の急減速、収入や教育、医療などの格差や分断は、急激に広がり続けています。こうした課題が増え続ける状況を、少しでも食い止め、そして在るべき未来に向けて好機へと変えるには、多様なアイデアを出し、共創と協働でダイナミックに立ち向かうことが必要です。つまり全ては、“ひとりひとりの人のチカラを本質的に高めていくこと”だと、考えました。

それが「活き人」でしょうか。

そうです。制約条件にとらわれず、あるべき姿を考えて、高い熱量で周囲を巻き込んでいく「活き人」にこそ、今の日本社会にひとりでも多く必要です。この国の歴史を振り返っても、明治維新は数えられるくらいの数十人の志士によって成し遂げられました。つまり、それほど多くの数がいなくとも、意志をもって行動する人たちが一つの目標に向かって強く結束すれば、新たな秩序を築くことができると信じています。

どんな未来を次世代に残すか、その為にこれからの自分たちにできることは何か、この問いを当社取締役の田島と何度も話し合い、Grand Story Inc.を創業しました。“より良いストーリーを描くところから挑戦をスタートしよう”との願いでこの社名にしています。

私たちは、この会社を通じて、ひとりでも多くの「活き人」を増やし、応援し、繋げていきたい。人のチカラで、成⻑限界点を迎えた従来の社会経済システムから、持続可能な次世代型のシステムへと変えていくことを目指しています。

“結果を出せる人間でいなければ、ここにいる意味はない”——創業の原点となった、「べき人」だった過去

そもそも、なぜ越智さんは「活き人」を増やすことにこだわるのですか。

もともと私自身が、社会人生活の多くを「べき人」として過ごし、不安・怖れを原動力に駆け抜けてきたからですね。組織内で評価を得て、一時的には満たされたとしても、すぐにプレッシャーによって駆り立てられていく。どこまで頑張っても虚しく、消耗していくことの繰り返し。そんな自分の生き方に疑問を持つようになったんです。

具体的に、どのような体験だったのでしょう?

色々とありますよ(笑)。印象的なのは、私が新卒で入社をした、株式会社サイバーエージェント時代のこと。当時は、デジタルマーケティング業界黎明期で、昼夜問わずガムシャラに働きました。その甲斐もあって2年目にはトップ営業マンになることができました。

ただ、他の優秀な営業マンや、競合企業とせめぎ合いながら、とにかく結果を出さねばと、毎日本当にピリピリしていましたね。「結果を出せない人間は、この会社にいる意味はない」——その恐れに突き動かされていたんです。今思えば、本当にあり得ない勘違いですよね。

次第に、思考・行動のすべてが成果の手段になり、利害関係・損得勘定でしか物事を考えられなくなっていきました。思うようにいかない相手には怒鳴ったりも…。あの当時、一緒に働いてくれていた仲間には、本当に申し訳ないと思います。それくらい視野が狭く、身勝手な人間だったと思います。

過当競争に勝ち、獲得したトップ成績の先には、まさかの孤独で、心の貧しい居心地の悪い自分がいました。

その辺りからご自身のあり方に疑問を感じ始めたんですね。ちなみに越智さんは、いつ頃から「べき人」だったのでしょう。

振り返れば、幼少期からそうしたパターンの生き方をしてきたように思います。小学校低学年までは、サッカーが大好きで、体中傷を作るまでに元気に遊びまわる子供でした。ただ、高学年になると、中学受験のための勉強が始まり、そこから変わっていったように思います。

私の両親は有名大学出身で、自分も両親と同じレールを走ることが当たり前だ、と思い込んでいたんです。子供ながらに親の期待を感じ取っていたんでしょうね。

いざ、中学校に入学しても、高校受験が待っていました。中学の3年間はとにかく勉強だけ。ほとんど自分のやりたいことをしていません。本当は、少しでも長くサッカーボールを蹴っていたかった。でも、本当にやりたいことなんて言わないし、言えなかった。

親や周囲の期待に応えねば、勉強せねば、と。

それが当たり前だと思っていましたから。そんな遊び盛りの幼少期から、大人の世界に合わせて動き、いわゆる「べき人」「ねば人」の生き方をしていたと思います。ただ、そのおかげで成績はグングンと伸びたし、何事もガムシャラに取り組めば、やがて閾値を越えて「わかる」から「できる」になる。無我夢中になれる面白い領域にたどり着けることを知れたのは、愚直に邁進したから。今はその環境にも感謝しています。

“そのやり方しか知らなかった自分”を許したあの日、道が拓かれた

そんな越智さんが「活き人」を意識しはじめた転機はいつ頃ですか。

サイバーエージェント退職後、博報堂を経て、AOI Pro.(現AOI TYO Holdings)に入社し、出向で株式会社ビジネス・アーキテクツの執行役員に着任したときです。

どんなことがあったのでしょう?

私は相変わらず休みを取ることなく働いていて。ビジネス・アーキテクツはクリエイターが多い企業ですが、私はひとりロジカルに淡々と全社改革を進めていました。社員とその家族を幸せにしなければ、と。

そんなとき、とある社員から「越智さんって緑の血が流れていますよね」と言われたんです。みんなのために!と休みも取らず、身を粉にしてひたむきに頑張っていたのに、まさか、感情を持たないサイボーグのように思われていたなんて。ただただショックで、一瞬にして絶望したのを覚えています。

感情を押し殺して働いていたんですね。

そうですね…。結果、うつ病寸前までいき、「ああ、いよいよダメだ」という瞬間が訪れました。そこで初めて2日間休むことに。ひとり車を走らせ、八ヶ岳に向かったんです。とにかく自然に触れたかった。

そこでたまたま見た景色は、一生忘れられません。広大なひまわり畑、奥に広がる八ヶ岳と、青く透き通った空。その景色を目の前にしたとき、これまで自分をがんじがらめにし、苦しめていたものが全身の細胞からワァーっと流れていきました。あまりの開放感に、気づけば、涙が溢れていました。

そして、ひとしきり泣いた後、パワーが全身に染み渡っていくのを感じたんです。まるで機械だった自分の体に、新鮮な血が回りだしたみたいに。厳しい努力一辺倒のやり方しか知らなかったこれまでの自分を許せたのかもしれません。

そして、人間は自然の営みの一部なんだ、と感じたんです。人間も動物としての感性・感情を持った生き物。およそ500万年前に誕生し、農業を営んでまだ1万年くらいしか経っていないので、社会を形成してからたかだか1万年なんです。地球規模の時間軸で見れば、現代の人間は自然と切り離されて、異常な状態で働いているのかもしれない…とも思いました。

そんな風に、感情や感性を取り戻してからは、自分の中にあった固定観念が少しずつ溶けていき、もっと自分らしく生きようと思えるようになっていきました。あの時が「活き人」として最初の一歩を踏み出したきっかけだと思っています。

日本中に「活き人」が増え、“希望と幸福に満ちた物語”が生まれると信じている

機械のように働いた苦しい時代がなかったら、今の越智さんはいませんでしたね。

そうですね。あの日々があったから今の私がいると思っています。ただ、私自身の内面の変化だけでなく、福島や宮城の被災地で復興支援に関わる「活き人たち」に出会えたことも、Grand Story Inc.創業に繋がる一つのきっかけだったと思います。

どういうことでしょうか?

実は、大学2年生のときに、私は阪神淡路大震災を経験しました。20歳の成人式の際に帰省し、東京に戻る夜行バスの移動中に地震がありました。実家は全壊し、家の目の前で4〜5人の方が亡くなっている状況で、小学校や中学校の校舎など、無情にも大切な思い出が一瞬で壊れていきました。

当たり前の日常が、ある日突然、当たり前ではなくなるという現実を、当時はなかなか受け入れることができませんでした。とにかく自分を見失わずに毎日を生きるしかない。そんな例えようのないもどかしさや虚しさ、喪失感に打ちひしがれた経験をしました。

それから数年が経ち、2011年の東日本大震災で、あの頃の記憶がフラッシュバックしました。震災直後は、モヤモヤするだけで、20歳の頃よりは成長したはずなのに、誰の役にも立てないままじゃないかと、激しい自己嫌悪に苛まれました。

しかし、震災から数年が経ち、ご縁に導かれるように少しずつ東北との関わりの機会が増えていきました。特に、福島県の南相馬には時間を見つけては何度も足を運びました。そこで出会った多くのリーダーたちは、苦しさや悲しさに立ち止まらず、故郷のコミュニティを元気にしよう、次の世代のために命を費やし闘っていて。

僕は、彼らから沢山のことを教わったんです。志さえあれば、行動は変わっていくこと。どんな困難な状況であろうとも、志を掲げれば、共感する人たちが集まり、活き活きとした場が生まれ、それは大きな力となり現実が動きはじめること。まさしくこの一連の経験を通じて、活き人とは何か、幸せな人生とは何か、を見つめ直していったように思います。

制約条件にとらわれず、あるべき姿から考え、⾼い熱量で人々を巻き込みながら⾏動し続ける。まさに彼らこそが、私自身が大切にしたいと感じた「活き人」でした。

越智さんが考える「活き人」との最初の出会いだった、と。

その後、被災地だけに限らず、日々の仕事の中でも沢山の「活き人」に出会うようになりました。恐れや強制感ではなく、確かなビジョンのもと、主体的に物事を進めていく。そんなリーダーのもとでは、誰一人として犠牲にならず、疲弊せず、働く仲間たちも活き活きとしていきます。リーダーとなる活き人の想いと判断と行動が、周囲に大きな影響を与え、世の中の当たり前を変えていくことを目の当たりにしました。

そうした体験が「活き人」を増やし、応援し、繋げていくことに落とし込まれたんですね。

だから「活き人」が日本中に増えていくことが、日本に「希望と幸福に満ちた物語(=Grand Story)」をもたらすと僕は信じているんです。そして、それに残りの人生の全てをかけたい。

「べき人」だった僕のように、今職場でもがいている人、また志を同じくする人、一緒に望むあり方へ、社会へと歩んでいけたら嬉しいですね。不安と怖れを持ち続ける「⽣き⽅」から、⽣きがいと潤いのある⼈間関係に幸せを⾒出す「活き⽅」へ。僕らの描く物語、グランストーリーはまだ始まったばかりです。

企画・インタビュー・編集:水玉綾 / 執筆:柏木まなみ / 撮影:戸谷信博

この記事をシェアする